【インタビュー】アメリカで20年以上かけて取り組む「日本の魅力を発信する」という誇り

営業、総務人事、経理財務、新規事業開発──1つの会社で20年以上叩き上げ、日本の食と文化を米国へ届けるKさんに聞く、「日本」の可能性

Japanese meal including sushi, ramen, miso soup, tea, and soy sauce on wooden table with manga books and anime figurines in background

米国で働く日本人といえば、留学した若手エリート──そんなイメージが先行する。しかし、全く異なる道もある。日本の大学を卒業し、物流会社で働いていたKさんは、転職を機にアメリカ・ボストンへ渡った。営業担当として米国キャリアをスタートし、その後、総務人事、経理財務、新規事業開発、と全機能を経験。日本酒の輸入事業や日本の食文化を体現するレストランの立ち上げを主導し、現在は食品のサプライチェーンマネージャーとして、北米における食の調達から流通までを統括している。在米28年、完璧な英語も潤沢な資金もなくアメリカへ渡った彼は、いかにして米国で長いキャリアを築いたのか。その答えは、驚くほどシンプルで、そしてとても深かった。

なぜ今、彼の物語なのか。米国外からのH-1Bに10万ドルの手数料が課され、賃金で当選確率が変わる時代。留学費用は円安で過去最高水準にある。『留学からの就職』という王道が細る今、『働きながらビザを勝ち取り、現地で登り続ける』というKさんの道は、30年前の昔話ではなく、むしろこれからの現実的な選択肢として考えられるものだ。

消えたベトナム赴任、そしてボストンへ

── 渡米の原点から伺います。もともと海外志向だったのですか。

「香港生まれということもあって、いずれ外の世界を見てみたいという気持ちはずっとありました。大学卒業後は、ベトナム法人の運営に関われるという話があって倉庫業に入ったんです。ところが、その機会がなくなってしまった。それなら自分で海外に行く道を探すしかない、と転職活動を始めました。」

「見つけたのが、当時からH-1Bビザのサポートをしてくれて、スタートアップ気質もあった旅行代理店でした。1998年、アメリカ東海岸ボストンに渡りました。」

留学でも駐在でもない。「海外に出る手段」として、ビザを出してくれる会社を自力で探し当てる──在米28年のキャリアは、この泥臭い一歩から始まった。その後の歩みは、ボストンで営業、ニューヨークで人事総務、ロサンゼルスで経理財務と新規事業開発、営業、パンデミックを機に日本酒輸入やファインダイニングレストランの立ち上げ、全機能を経験しながら登り続けた軌跡だ。現在は食品サプライチェーンを統括し、北米の食を支えている。

グリーンカード前提で、誰よりも働く

── 当時のH-1Bも、今と同じ「3年+3年」の最長6年でしたか?

「そうです。6年経った後に残れるのか、仕事がどうなるかも分からない。だから最初から、グリーンカードのスポンサーになってもらうことを前提に、誰よりもハードに働こうと決めていました。会社にスポンサーしてもらうのだから、それは当然のことだと考えていましたし、仕事で恩返しがしたかった。」

「結果として、当時としても相当早くグリーンカードを取得できました。その当時に申請が混み合っていたニューヨークではなく、ボストンだったことも幸運だったかもしれません。」

「気づけば20年を超えていました」と笑う。ビザという崖を、覚悟と働きで越えた最初の数年が、その後のすべての土台になった。企業がスポンサーに慎重になり、H-1Bの不確実性がかつてなく増した今、『ビザを出してもらう側は何を差し出すのか』という彼の視点は、Dream Acrossの制度解説のどの記事よりも本質を突いている。権利として求める前に、信頼で応える──28年前の新人が実践したことは、2026年の留学生にもそのまま通用する。

「会社にスポンサーしてもらうなら、誰よりもハードに働く。それは当然のことだと考えていました」

営業から経営まで──ジェネラリストの誇り

営業から人事総務、経理財務、新規事業開発まで。一つの会社でこれほど幅広い職種を経験した方は珍しいです。

「最初はボストンで、日本からアメリカへ来るお客様のご対応、いわゆるインバウンド業務担当でした。その後、アメリカ在住のお客様へのご対応をするアウトバウンド業務を担当し、幹部候補としてニューヨークとロサンゼルスの管理部門へ。人事・総務、経理・財務に関わる機会をいただきました。ロサンゼルスでは法人営業や、大学生・大学院生を日本に連れて行くJapan Trekのお手伝いのような、営業的な仕事もしています。」

「ベンチャー気質の会社だったので、様々な業務を経験させていただけたことには感謝しかありません。アメリカ的なスペシャリストの道もありますが、それだと会社全体がどう回っているかが見えない。私は、ジェネラリストであることに誇りを持っています。」

職務経歴書で採用され、専門の縦穴を深く掘るのが米国流だとすれば、彼の歩みはその逆を行く。だが、「会社全体がどう回っているか」を見てきたジェネラリストだからこそ、後の新規事業でゼロから何でも立ち上げられた。専門性の時代にあえて言えば、越境できる幅もまた、代替されにくい専門性であると言える。

── 幅広い人脈をお持ちなのも印象的です。ネットワークづくりの秘訣はありますか。

「常に『ひと様のお役に立てるように行動する』ことを心がけているから、かもしれません。悪口やネガティブな人の周りからは、自分から去っていました。結果として、周りには尊敬できる方ばかりがいてくださる。本当にありがたいことです。」

テクニックではなく、あり方。専門性の掛け算が語られがちな米国キャリア論のなかで、「役に立つ人であり続ける」「利害抜きにして、困っている人を助けたい」という彼の答えは、28年という時間だけが証明できる説得力を持つ。そしてAIはまだネットワーク構築はできない、信頼と人との関係はまだ残り続ける。

Covidが変えた道──旅行から、日本食へ

順調に見えたキャリアを、2020年のパンデミックが直撃する。

── 旅行業界にとって、Covidはまさに存続の危機でした。あのとき何が起きていたのですか。

「旅行需要が完全に止まり、業界では相当なレイオフが起きました。私は幸運にも残ることができましたが、本業が止まった以上、新規事業を考える必要があった。そこで始めたのが、ミールキットの開発や、日本酒・生酒の輸入といった食品事業です。合弁で立ち上げた高級日本食レストランの管理・運営にも関わりました。その延長で、今も日本に関わる食やエンターテインメント分野にも携わっています。」

危機が、旅行のプロを「日本の食と文化を売る」事業家に変えた。全職種を経験したジェネラリストだったからこそ、ゼロからの事業立ち上げに対応できた──キャリアの伏線が、危機で一気に回収され、これまでの点が線になった瞬間だった。

「日本の魅力を発信する」ことは、国益である

── 「日本の魅力を発信する」仕事のやりがいは、どこにありますか。

「大学生を日本にお連れするJapan Trekでは、彼らが日本を好きになってくれます。彼らはいずれ、アメリカの政治や経済の中枢に必ず関わっていく人たちです。その人たちに日本を紹介できることは誇りですし、将来の国益につながると本気で思っています。」

「28年前に渡米したときと比べて、今の日本のプレゼンスは圧倒的に違います。それは、そうした積み重ねの結果でもあるんです。日本に興味を持つ人を、一人でも増やせたら本当にうれしい。」

個人のキャリア論として伺っていた事が、静かに国益論へと接続される。留学生の一人ひとりも、駐在員も、レストランで働く一人も──米国で日本を背負って立つ全員が、次の10年・20年スパンでの「日本のプレゼンス」をつくる当事者なのだと気づかされた。

── 日本食や日本文化の米国展開は、これからどう広げていくべきでしょうか。

「カリフォルニアが先陣を切っていますが、可能性のある州や都市はまだまだあります。ただ、そこには団体・政府・企業が連携するインフラが必要です。例えばアジアの他国では、同胞での連携がもっと強い。在米日本人の連携には、引っ張り手──旗振り役が必要なのは間違いありません。JETROや関係団体を巻き込んで、大きく動かし、プロモートしていくことが求められています。」

これから米国を目指す人へ

── 留学ではなく、働きながら米国でキャリアを築きたい読者に、アドバイスをお願いします。

「まずは目の前の仕事に全力で邁進すること。会社からの信頼を得るのは、雇われる側として当然のことです。そこからすべてが始まります。」

── 仰ったような「旗振り役」を目指す人には、何と声をかけますか。

「今はSNSが非常に強い時代で、個人でも発信できます。日本の良さも、変えていかなければいけないことも、もっと発信していい。アメリカで日本をプロモートすることに反対する日本人はいませんから。共感してくれる人を集めながら、動いていくしかない。可能性は、まだまだあります。」

SNSで発信し、共感者を集め、旗を振る──それは本メディアの挑戦そのものでもある。28年を叩き上げた先輩からの、これ以上ない後押しだった。

「アメリカで日本をプロモートすることに、反対する日本人はいない」

Kさんの28年に、派手な転身の物語はない。あるのは「スポンサーしてもらうなら誰よりも働く」という当然を積み重ね、与えられた機会に感謝しながら全機能を吸収し、危機が来れば新しい事業で道をつくる──その繰り返しだ。留学もMBAもなくても、米国でキャリアは築ける。そして築いた先で彼が見つけたのは、「日本の魅力を紹介する」という誇りだった。30年前より圧倒的に高まった日本というプレゼンスは、彼のような積み重ねの上にある。我々は次の10年、20年をつくる旗振り役に、この記事が届くことを願っている。

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